絵板絵描きがふと思う。「あのとき、自分は何に関心を持っていたのだろうか」そんなときのためのメモ。
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自分専用辞典
「マルドゥック・スクランブル」の主人公の少女は確か、自分の辞典を作っていた。
とてもいい設定だったのに、後半まったく出てこなくなったなぁ。これが切り捨てられた背景は何だったのだろう。小説中では、「自分の殻に閉じこもっている」しかし「自分で世界を規定していこうという強さを秘めている」系を暗示させ、同情を喚起させる因子として機能していたようだが、それは最大効果を上げていたのだろうか。
仕事でも遊びでもないもの、 と言ったら、これは一番ニュアンスが近いものだと「勉強」である。(白日日記より)
たとえば、この「なるほど」とうなずいてしまうような句を眺めてから切り刻み、発言者の辞典での字義を推理し理解し噛み砕き飲み込む。「仕事」とは顧客や雇用主を満足させるためのものだろうし、「遊び」とは自己満足、内面への追求のことだろう。ならば、「勉強」とはそのどちらでもないフィールドでの知技の取得のことだろう。そしてこの言葉は、おそらく学校生徒には当てはまらないし実感できないであろうと思う。つまりこれは受動的学生以外の者にふられた話なのだろうか。
人は勉強をすればするほど見事な職人になっていく人と、勉強することによって生きていくことの職人になることから逃れていく人がいる。(同日の白日日記より)
これをみると「勉強」は最近の傾向としての「遊び」や「仕事」の影響力と同じ可能性を持っている。最近の風潮で、これら三者は密接な関係、重複した意味づけの存在となっている、と言えるであろうことは一連のマスメディアをみればいいわけだが、おそらくこの日記が書かれた89年にはそうではなかった。だから今ここで別の感触を得てもいいわけだ。当然のことながら人の数ほど受け取り方がある。だが、時代が持っている字義というものは必ずしもその数ほどは無い。どこかで共通理念化という現象が起きる。…眠い(>ぉ)。思考がぶつぶつ断絶する・・・。
つまり何かというと、言葉は時代によって変わる。そして、変わることによってその存在、(辞典の)句、を保つのだ。よワトソンクン。
節目にいつも思い出す名言は「変わらないためには変化しつづけなければならない」という、あの言葉だ。(同日の白日日記より)
それが小説内での「自分専用辞典」のテクニックの成功率といかに絡んでくるかというと、(辞典の)句はそのモノの意は流転する性質があり観測し得ないが共通理念化(「結婚は人生の墓場だ」などの実態が無いが有名な慣用句など)に関しては反応の収穫を見込める、という潜在的な性質がある以上、「自分専用辞典」は共通理念化にからむエピソードにおいて使用するのが自覚的に使用する上では最大効果を見込めるはずだ、という意見なのである。ばっきゃろう!それがどうした!
いやはや、ごもっとも。風呂に入っていたらふと頭に浮かんだんだよね……。
支離滅裂。でも。引用と論調がまったく関係なく、でも溶け合って――そんな文章のモンタージュ効果そのものが好きな位相マニアな私はどうやって辞典をつくっていったらいいのだろうか。眠いのでもう寝ようと思います。おやすみなそい。そい。
| hirosakisinji (sin) | 僕的 | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
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