「近頃老後のことをよく考えるんだ」
雲がアコーディオンのように伸び縮みしては雨と風との音色を奏でる。地表近くで煙った霧が脈動し、世界全体が音楽堂のように音を包む。近くでペンキをブラシでこそげ落す音。それは街路樹の葉を叩く雨の音。じゃんたらったと精霊の鼓笛隊が行進する。車体の天部に雲の結晶がぶつかっているのだ。
「ケンゾー、お前、今年でいくつになる?」
「三十です、ディーニさん」
ディーニは白いものが混ざり始めた刈り上げ髪をばりばりと掻いて巻き葉に火をつけた。バニースタを吸い込む仕種も、横目に見てくるそのモスグリーンの瞳も、助手席に沈み込んでいた上体をゆっくり伸び上がらせる仕種も、自然さを取り払って老獪さをアピールするように振舞われた。来年に定年が迫ったこの老刑事は、今までそうしたものをちらつかせることで仕事をスムーズにしてきた。
「そうか、そんなにもなるのか。お前がここに来たときはまだ二十代の前半だった。十年近くもか」
「ええ。僕が家を決めた時にお会いしたのが最初でした。憶えています。こうして座りながらお話しするのは始めてですね、ディーニさん」
「見回りの途中でこの雨だ。つないであったはずの馬もどこかに雨宿りに行っちまってな、ケンゾーが車で通りかかってくれて助かった。よもやこんな町外れに来る奴がいるとは思っていなかったからな」さりげなさを装うべきところでディーニは直球だった。「この先には国境の橋しかない。警備隊以外で近づく奴は動物とスパイだと決まっている」
窓の外で雨脚が強くなった。雨幕の中で音と影が動く。
「ならディーニさんもそうなってしまう」
足下から雨気が昇ってきた。
「そうだな」
「……ご自宅までお送りしますよ」そう云ってキーに手を伸ばしかけるとディーニの鋭い制止。いつの間にか手に拳銃を持っている。
「俺としたことがお前が家族を持ったからと安心して油断した。スパイってやつはいつも逃げ道を開けておく奴らだと思っていたからな。敵の中で忍んで暮らさなければならない、もし発覚したら命はない、全てを失う、だから大切なものは作らない。そのくらいの常識と情はあるとな。どうやらこの歳になってもまだ俺は甘ちゃんだったらしい」
「ディーニさん」
向き合う。
「お前、カトリーヌ様を探ったな!」
「落ち着いてください」
黙れ、とディーニは身を乗り出して銃口を額に突きつけてくる。だが不思議と緊張はなかった。何もかも予測の範囲を超えないように思える。乗り切れるというメタ的な視野がゆっくりと脳覚に拡がっていく。奥歯の薬が溶けはじめているようだ。感受の処女性が喪失している。それに切りたてのような檸檬の香味。状況を客観的に受け入れ――私は行動を開始した。
イグニッション・キーを回そうと手を伸ばした時ハンドルの上で何か動くものが見えた。それは透き通るような白さに膨らんだ胴体に、うっすらと黄色と黄緑色の線が背面にそって流れている蜘蛛。生まれたてのように小さいが、生き物の本分である躍動感はなかなかのようだ。森の中から付いてきたのだろうか。車内にたちこめた山のにおいを嗅ぐ。いくつかの可能性を考え、害はないと判断して払いのけた。
非公式訪問の渡りをつけるだけの仕事だった。それがまさかこんなことになるとは。まさか予言の通りになるとは。異国人の自分にまで及ぶとは。長い潜入の間に自分もカトリーヌを中心とした集団的な何かに囚われてしまったのかもしれない。物語の中に閉じ込められているのを知らされた気分だった。もはや逃げ出せない。これがやつらの、敵の、恐ろしさ。緊張からくる熱や、不安からくる囁きの幻聴を払いのける薬の十分に回った頭で冷静に噛み締めた。
「ケンゾー。現実味がないものには使命感を燃やせない。使命感のない自分がやっていることは作業でしかない。そうだろ? なら過去と自分はどこでつながっている? 命令に従う理由なんてとっくの昔になかった。役割りを演じていただけだ、人形のように。すっかり人形遣いカトリーヌの国民になっていたわけだ。俺もお前も」
【了】