絵板絵描きがふと思う。「あのとき、自分は何に関心を持っていたのだろうか」そんなときのためのメモ。
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100の14-「波」
『ワタ・ツミ・ナミ』
「ぁあああああああああああああああぐっ――――」
 叫ぶ度、口に海水が流れ込んで麻美は苦しんだ。その様子を見ていると、浜風とは関係なく足が冷たくなってくる気がする。
「あんたが悪いんだよ、麻美」
 言ってから、なんだか私の方が強がっているようだと思った。
「そうだよ! 自分が何したか忘れたわけじゃ無いだろ! あんたが笑いながら久恵を落としたの、見た奴がいんだよ! バックレられると思ってんじゃねぇよ!」
 肩を並べている私にも、熱や息遣いが伝わってきた。久美子はあきらかに興奮していた。潮風の中で力任せに大声を出してきたせいで、喉はすっかり濁声だ。
 淡々と単調な起伏の波が、何度も何度も麻美の顔を洗った。白く泡立った海水にすすがれるその度に、ぶるぶると震える麻美の顔から色が拭い去られていく。
「罰だ」
 そう、これは罰だ。
 久恵の命が助かったのは本当に偶然だった。引率の教師が救い出し、怪我が無いと安堵の雰囲気が流れたのも束の間、久恵の変わり様に皆が凍りついた。養護教諭の部屋を見舞ったクラスメイトに激しく怯えたのだ。そして――。
「死にはしないよ、流されないように縛ってあるから」
 今が満潮、これ以上潮位が上がることはないよ、そう呟く。殺す気はないよ。そこまでリスクを負う気はないから。口にする度、それらはまったく意味のない言葉のように思えた。あはははははっ、と久美子が笑った。
 シネヨと云った口で、ダイジョウブとは。
 ダイジョウブ。
「……自分に言ってるし」
 自己嫌悪に潰されそうだった。
「え? 何?」
 風が強くなってきた。久美子と私の髪の毛が生き物のように私の顔へまとわりついてくる。この風、時化風か? 海が荒れるかもしれない。そういえば、勢いが先に立ったので新聞も波情報も見ていない。
「いや何でもない」
 なにそれー、あふふふふふっ。久美子は笑った。
 私は笑えなかった。笑おうとして、口の中が乾燥しきっているのに驚いて、あわてて口をつぐんで、つばを搾り出して、飲んだ。
 これからどうするか。罰は下した。だがこれからどうするか。海が荒れてくるなら洒落にならなくなる。引き潮まであと一時間はあるはず。潮が引かなければ縄を解きに近づけない。
 また海から風が吹きつけてきた。視線の先でひときわ大きな波が人柱石に覆いかぶさる。麻美が船上に引き上げられた魚のように身をよじったのが見えた。気持ち悪くなる。もしかしたら――。久美子はそのことに気づいているのだろうか。
 逃げ出したかった。
「ね、もう帰ろーよ」
 突然。久美子が飽きたような調子を出しながら、いきなり堤防へ歩きだした。
 私は一瞬目の前が真っ白になった気がして、電池を抜かれた電子人形のように固まってしまった。
「ね!」
 私が動かないでいるので少し声が苛立っていた。振り向いたら視線が一直線にぶつかった。轟々と風が鮮烈さを増した気がした。
囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂
 どれだけ見詰め合っていたかわからない。
 ……。
 ふと気づくとあれほど吹いていた風がどこにもなかった。恐ろしいほどの無音だった。久美子も気づいたらしく、あれっという顔で辺りを窺う。私は急に寒気を覚えてあごを引いた。いや、その逆だったか。頭がぐるりと逆さになった気がした。
 音がない? そんなこと――あるはずが無い。だって、すぐ背後には海がある。波の音まで消えるなんて、起こりえるはず――はっと振り向いた。
 私は、言葉を失うという状況を生まれて初めて体験した。
 海が、
「消えてる」久美子の声には悲惨な色が出ていた。
 目だけがかろうじて動いた。
 そして、見えた。いや、見えなかった。いるべき所に麻美がいなかった。
 人柱岩にしっかりロープで縛り付けてあったはずが、跡形も無い。まるで油塊かなにかが溶けてしまったかのようだ。つるりとそれだけが拭い去られて……。
 声が出そうになった次の瞬間、さらなる異変に気づいた。人柱岩が何かの境界であるかのように、その背後からの地の全景がぎょっとする黒色に変貌していた。水の仮面を取り外したその素顔は、恐ろしい笑顔のように思えた。
 ね、と久美子が呻くように「やばいよ、思い出したけど今日って……」
 私はそれを聞いていたのかどうかわからない。ただ、久美子の声が一音一音呪詛のようにおぞましく耳の辺りに奔ったのに身震いしたのは覚えている。
 始まりはぬるい風だった。 海だった場所は今や恐ろしい黒い砂の原、彼方の雲間から落ちた光に、きらりと地平線が――地平線そのものが光った。さながらギロチンの刃だった。地平線から銅色の刃がすーっと滑ってくる。そうだ、これは罰だ。
「走って!」
 久美子に腕をつかまれ、そのまま有無を言わさず引きずられた。
「待っ――」
 走りながら首だけ振り返る。すでに砂原は消え、薄い水の鏡面が出来上がっていた。いつもよりも一段低い海面に、不吉な影が溶け込んでいた。
「ぁ」
 波によって地平線まで引きずられていく麻美の画が頭に浮かんだ。その画は音を立ててゆっくり砕け、その鋭い破片が脳のあちこちにゆっくりと突き刺さっていく。びりりっと身体に電気が走る。小さい悲鳴を上げた私に久美子が振り返って何かを言ったが聞こえなかった。
 巨浪に弄ばれ、大陸棚付近の急速な海底の落差が生み出す透明な大罠扉、海中の海水の層にあっさりとねじられ、引きちぎられた蝉鯨の映像を学校で見たことがあった。今、途端にその記憶が蘇えった。鯨と麻美が入れ代わった映像で。
 鮮明に、鮮明に、鮮明に、鮮明に。
 煙藍色の海中を、暴風に吹き飛ばされるかのようにぶっ運ばれる麻美。アップになる。口元が動く。唇が言う。た、す、け、て……。
「ぃや――」
 堤防を上がりきったところで私は倒れた。
「何やってるの! こんなとこじゃまだ駄目だよ! 走らなきゃ!」
 さっさと立て! 早く走れ!
 背中に振り下ろされる久美子の声が、妙に遠くに聞こえた。足に力が入らない。不穏な轟きを孕んだ圧力のようなものを全身が感じていた。
 だめだ。
「早く!」そう叫んで私を蹴飛ばした久美子はそれ以上諦め、髪をなびかせて石垣を越えて道路に飛び出ていった。咽びながら仰向けになった私の頭上を越えて霧のような水気が久美子を追いかけていく。
 海の方を見た。空が見えなかった。泥色の壁が、視界の全てだった。どぅぐんどぅぐん、億の心臓の鼓動を、どぅぐんどぅぐん、耳もとで聞かされたような、どぅぐんどぅぐん、滅亡音を含んだ、それは、見たこともない高波だった。
 ばらばらと大粒の雨が落下してくる。巨人の滂沱を受けているようだった。全身が瞬時に濡れそぼる。服や髪がぐちゃぐちゃになって地面に張り付く。私は目を見開いていた。それは圧倒的な圧迫感だった。圧力そのものだった。圧倒的、最強のポテンシャルを秘めた波が、今ずくにも崩れて来そうに傾いてきている。砕けた水塊の空襲はすでに私を打ち始めていた。その中の、いや全体からか、どこからか、水気のどこかからかすかに、だが確かに聞こえた。
 人声が。
 低い波が腰の辺りをタックルし、私はなす術もなくひっくり返った。
 頭の中がぐだぐだになっていく速度が加速した。練り物のようになった脳に、水へ重いものを落とす音が聞こえる。
 気づけば既に水の中だった。
 私の目は開ききっていたが、海水は濃く濁っていて何も見えない。
 もう何も考えられない。
 水に入った瞬間は静かだった。そうだけ思った。体中が脱力していく。それはとても気持ちがよかった。しかし、次の瞬間、一瞬で煮しめられたかのように体が緊張して跳ね上がる。波の中で起きている全ての音が層になって耳に飛び込んできたのだ。
囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂囂
 水流に翻弄される中で、首に何かが絡みついた。ぐいっと引き寄せられ、耳元で生暖かい泡がごぼごぼごぼと沸き起こる。その泡の一粒一粒から、海面を求めてあえぐ雑音の奥から、麻美の声が鈍く染み出してきた。
 その声色が次第に重々しく、変わって、いく――。
 ちくしょう。ちくしょう。
 あああああああああああああああああああああああああああああああああ!
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 私の中の何かが壊れた。
 がむしゃらに、無茶苦茶に腕を振った。なぁんんで触るんだやぁぁっ。ごうん。水、冷たい、どろどろして、臭い、私は悪くない、うああうっ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 渾身の一振りで力強い波が起こった。絡み付いてくる何かが周囲の海水ごと一気に剥ぎ取られた。説明のしようがない力によって濁流が破裂し、荒れ狂う気配が吹き飛んだ。私を爆心地にして周囲の重々しい泥水が、風を巻き込むような鋭音を伴って螺旋を描きながらどどっと消滅していく。それは奇跡のような光景だった。
 体から重圧が消えた。喉と肺が周囲になだれ込んできた空気を求めて大きくうねった。息を吸い込むと同時に脳がきゅんと痛くなるほど冷たくなった。
 目の前が開けた。
 強烈な魚の臭い。目の前に麻美の顔があった。
 魚とも烏賊とも言えない海の凝縮体のような魔物が、体勢を立て直そうとする波壁の中から上半身を乗り出してきた。一番太い腕の付け根に埋め込まれたような人の顔があって、それが麻美だった。
「ろろろろろっろろろろろろろろろろろっ、あたしは、感、謝されてるんだ」
 地に吸い込まれていく渦のような声だった。
「久恵、が、海神にな、れたのだってあたしが、が、が、がががあぁぅぅ、落ちこぼれた、腹いせ、だめ、シットは、はははっ」
 周囲が轆轤のように回り始める。波が体制を立て直し、何事も無かったかのように空白地帯を周囲から浸食していく。怪物がずいと前に進んできた。腰の辺りまで水位が回復し、瞬く間に足首の辺りの水が盛り上がる。怪物は泥海に埋沈した。
 波の頂上に持ち上げられた。空が急激に近くなった。ほんの一瞬、静寂があった気がした。雲と、晴れ渡った天覧と、その向こうの、何か――何かが……。

【了】
| hirosakisinji (sin) | 100のお題 | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
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