恭二は頭に灰色の帽子を遠慮がちにのせていた。いや、どちらかといえば嫌いなものを箸の先でつまんでいるような、彼女の猫に未だに好かれないのは仕方ないことだとあきらめたような、その存在に対しての無気力感が顔にぼんやりと浮かんでいた。灰色の帽子は組織の中での最下位の証だった。彼が企業の中であってはならない存在である事実を周囲に提示し、再教育と再研修生の必要性を本人と周囲に毅然と認識させるための外面的な仕組みの、具体例としてそれはあった。恭二はそれを入り口で渡され、渡されるままに頭にのせた。そうすることがこの会社でのルールだったからだ。とはいえ久し振りにその条項に触れたものだから、恭二は初め何かの冗談かと笑ってしまいそうになった。けれど受付のインド人がぴくりとも表情を変化させないので、舌の真ん中辺りまで来ていた笑いをそのまま飲み込まなければならなかったのだった。
「あそこに行くと、足がとても臭くなるらしい」
「いやいや、とても目がよくなるらしいよ」
「勝手に結婚相手を決められるって聞きましたが」
人事館の廊下を歩くのは、入社時直後の任命式以来のことだ。本社からたった通り一つ跨いだ処に建っているのに、普段は殆ど近寄ることがなかったし、また進んで近づきたいような場所ではなかった。新時代を感じさせる北欧めいた本社屋と違い、一つ時代を下った感のあるこの建物を、社員はこもごもの想いを込めて御局様と呼んでいる。
もしかして、このまま足が臭くなって目がよくなって結婚相手を決められてしまうのではないか。恭二は、自分が動揺しているのに今更ながらに気が付いた。自分の靴の裏が鳴らす音がやけに耳につく。逃げ出したい気分とはこういう気持ちを言うのではないだろうか。彼はふとそう思った。
廊下の突き当たりのその部屋の扉は、重々しい存在感を強調する彫刻が施され、しかも樫の木で出来ていた。
ノックする。
「入りたまえ」
待ち構えていたかのような素早さで返答が来た。打って鳴ったかのようなその速度に、恭二はやや感動しながら、失礼します、とお決まりの断りを入れて部屋に入った。扉を開けるとき、扉の上と下に取り付けられた鈴がちゃらりんと鳴る。
「橘恭二、参りました」
部屋の中はやはりと言うべきか、権威付けに全てをかけている家具や内装で埋め尽くされていた。部屋の中央で地獄に転がっていそうな机が鎮座して、周囲をびんびんに威圧しており、その向こう側でオスマントルコの提督が腰を下ろした姿勢で縫い付けられたまま現代に至っていそうな、やけに肉付きのいい大椅子に、見間違いに扱われそうな無個性な男が座っていた。赤頭巾ちゃんがおばあさんの死体を武器にして戦っているくらい異様な取り合わせだと思ったが、しかし恭二は彼が誰なのかを知っていたし、彼はそういった冗談をひどく愚かしいものだと考えていると聞かされていたので、不似合いを知らせる笑いをすっかり省くことにした。
「君はいくつかテストを受けなければならない」
人事部長の山田一は、机の上の書類に視線を投げたまま告げた。
「ちなみに君の今日一日の活動は、君に因する雇用契約違反および会社に対する損害の補填業務扱いであり、君にとって有給業務ではなく有料業務であることを先に言っておく」
そう山田一は小声の早口で宣言した。
「脅迫事件の件と聞いていましたが……」
「もちろんそのことだ。我々ミックマートへの脅迫事件について。そのことで君を呼んだのだ」
恭二は、わけがわからないと山田に伝えた。
「台東区の店舗で扱っている商品に田中さんを仕掛けたという脅迫があったことは知っています。そして実際に見つかったということも聞きました。しかし私には何の関わりもないと思いますが」
山田はけっけっけっと嘲るような声を出し、ゆっくりとした仕種で机とその上の資料を何度か撫で、既に真相を掴んだとまさに確信している、といった強靭で動かしがたい気配を上目遣いに送ってきた。
「ちょっと待って下さい。私は田中さん混入に関われる工程にタッチしていません」
山田一は何かを確信してしまっているらしい。もしそれが自分に対する見当違いのひどい妄想であったとしたら、自分に害が及ぶファンタジーだったとしたら、と恭二は少し焦りだした。この歳の管理職が突然壊れることはよくあることだ。確認チャートを頭の中に描き出して、しどろもどろに疑惑の項目をチェックする。
販売側が犯人だとした場合、実際に加工された商品を検討すれば、どの工程で工作されたか少なくとも推測できるはずだ。製造ラインに関知せず、商品管理の現場にも赴いたことさえない自分のような会計屋が関われる余地はない。それに客として店に行った事もない。まったく商品に近寄っていないのだ。そもそも田中さんを入手する経路も持っていないし、人に依頼できるほど個人で金を持っているわけでもない。帳簿の改ざんなど入社以来したことが無い。三度確認してから恭二は額の汗を拭った。そして反論の利がこちらにあるとわかると急に気持ちが大きくなって余裕の表情で座っている山田を見下ろすことができた。
「論理的思考に従うとするなら、そんなこと起りえませんよ」
特に論理的な思考をしたわけではなかったが、恭二は論理的という言葉を強調した。なんだか灰色の帽子が急に煩わしくなったので取っていいか山田に訊くと、山田は首を振って、
「いいや君だ、犯人は君だ。君は恐るべき人間管理術と帳簿に残らない微小の会計操作と店舗間のわずか一つの規定の違いを利用して、この事件を実行してみせたのだ。そうだね、論理的思考を欺くという点に関しては君はまるで怪人二十面相か何かのようにうまくやったと言わざるを得ない。だがそのカラクリはもはやボクが見破ったのさ。君はもう認めるしかないのだよ。これからトリックを破壊する。この謎が解けたとき、君に待っているのは死刑だねきっと」
山田がそう宣告する。くくくくっ、と巨大な肉椅子に抱擁されながらひかえめを絵に描いたような笑いを発した。海外の小説に出て来る厭味な座椅子探偵といった雰囲気だった。足が臭くなって目が良くなって結婚相手を紹介してくれるどころか、トリックを指摘されて破壊されて死刑にされてしまうという。とんだ建物だ、ここは。恭二は急激に眠くなってきた。こんな時は寝るに限る。
「おっと、しばらく君のままで聞いてくれ」
山田がそう言った。どういう意味だろうか。
「トリックを説明するから聞いてくれ。つまりは、こういうことだろう?」
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じゃかじゃーん
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じゃかじゃかすかじゃかじゃか
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じゃんじゃじゃ……
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(エンドロール)
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出演
会計係の男・橘恭二/hirosakisinji
人事部長・山田一/hirosakisinji
受付のインド人/hirosakisinji
プロデューサー
hirosakisinji
美術
hirosakisinji
撮影
hirosakisinji
雑務
hirosakisinji
オープニングテーマ
『賞味期限よ、さらば』作詞作曲/hirosakisinji
エンディングテーマ
『眠いんだから・万引き死すべし』作詞作曲/hirosakisinji
脚本
hirosakisinji
監督
hirosakisinji
A林
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じゃかじゃーん!……わわわわわわわわわわ
【了】